女衒浄夜/小説/蒼龍苦界
2024年 03月 23日
女 衒 浄 夜
ー若者とは、馬鹿者だ....、
金沢駅に向かう新幹線の中で藤老人は、これから行く街にまつわる、ある苦い思い出を噛みしめていた。
北陸に向かうといつも同じ古傷をなぞってしまう。
若者とは、先ず、人生経験が浅く、思慮が足りず、それだけに驕慢だ。
自分は、やることはやっている。そして、誰よりも、頭が良い、運動が得意だ、家柄が良い、絵が上手だ、歌が上手い。
顔が良い。
女にもてる。
自分を特別扱いしてまわりを出し抜いたような気分になる。
若い頃はそれだけでいい。無限にあると思える時間のなかで、将来の事など考えもしない。少年老いやすく光陰矢の如しとは、そこ、そこの年齢にならないと痛感はしない。
老人は思案を止めた。何も自らすき好んで落ち込む必要も無い。しかし、群馬県を過ぎて、長野県から新潟県の上越妙高に出て、日本海にぶつかると途端に空が暗くなる。
そして、雨になる。
日本海の景色はいつ来ても老人を憂鬱にさせる。
陰々滅々とした気分だ。
北陸も戦後からバブル期にかけてはヤクザにとって抗争の絶えない土地だった。
当時は勢力拡大で風人車も北は北海道から南は大阪まで手を広げており、何処の組の誰が襲撃にあって命を落としただとか、すぐに話は聞こえてきたし、警察署にダンプに突っ込んだとか、九州や広島と並んで、北陸のヤクザはやることが派手だった。啖呵が上手い親分さんがいて、テレビにもしょっちゅう出て、ワイドショーの記者とのやりとりが面白かったのを記憶している。
懐かしい暴対法施行前の話である。
その頃は姉さん方が団結して街宣車で回り、
ーご町内の皆様、何かお困りごとがありましたら、警察では無く、地元の親分さんにご相談下さい….、
と、それぐらい任侠が巷に信頼されていた時代であった。
理由は単純で、威力・暴力は秩序をもたらしてくれる。何処の地域でもそうだが、戦後の裏社会が信頼を勝ち得たのは、腑抜けになった国家権力に代わって、進駐軍にまっこうから立ち向かったから。
我が物顔のアーミーが日本人に殴られて許しを請うのだから痛快なのである。
あの頃の無頼は弱きを助け強きを挫く気風があった。そもそもがあぶれ者の寄せ集めである。張るのは体のみ、腹を括ったら退かぬのみ、寄る辺無き者たちの意地だ。
ならず者も多かったが綺羅星のようなギャングスタ―は今でも名前を残している。
それにしても、日本海と北陸新幹線が平行になり、車窓から暗い空と暗い海の曖昧な境界線を見て、藤庄吉はよりいっそう憂鬱になった。
関東人にこの景色は慣れない。
気分を変えたい。
『和季、すまないが、お茶をもらえるかい』
藤老人の隣の席には林和季が座っており、微かに笑うと、バックからお茶の入ったタンブラーを取り出す。
風人車に来たばかりの和季は、感情の起伏がほとんど無く常に無表情だったが、最近は藤老人、風間、雷島、それと、琴乃に対しては笑顔を見せるようになった。
荷物としてかさばるのでキューケースは置いてきたが、最近は風間が色々と買い与えるのが悩みの種になっている。
心配になる。
例えば、大型バイク。無免許なのに、サーキットでプロライダーから簡単なレクチャーを受けただけで、次の瞬間にはハングオンでカーブを抜け、その日のうちにアマチュアのコースレコードを塗り替えたそうだ。
プロに及ばなかったと聞いただけホッとした。
和季からタンブラーを受け取ったタイミングで風間からlineが入る。
内容は、和季の叔父にあたる林睦夫さんが来られて、出来れば和季に実家に戻るように伝えて欲しいとのことだったが、本人の意思を尊重するとのことで話をまとめたとのことだった。
うちの若頭は何をやらせても器用だ。
思えば風間が10代の頃、歌舞伎町の喫茶店で昼間からビールを飲んで店員に絡み、それを居合わせた藤庄吉が咎めると、態度があまりにも生意気だったので、当時は喫茶店なら何処にでも置いてあったインベータ―ゲームの筐体に、頭から叩きつけてやったのが出会いだった。母子家庭で母親の体が弱く、せっかく入った高校も月謝が払えずに中退して、スナックに住み込みでバイトをしていた。
拾って面倒を見てやったら、めっぽう頭が良くて、大学検定試験から法学部までストレートだった。司法試験を突破して、そのまま何処にでも行けばいいものを、何故か風人車に居ついて若頭に収まる。
心配なのは40歳を過ぎて独り身だということだったが、最近になってブロンドの恋人と同棲を始めた。外国人の姉さんはあり得ないだろうが、紅毛碧眼の子供が生まれたら、それこそ孫が出来たようで可愛いだろう。
タンブラーからお茶をすする。
お茶が美味い。
少し時間が経ち、うとうとしていると新幹線が金沢駅に入る。まったく便利な時代になったものだ。歌舞伎町の自宅玄関を出てから3時間と少しで金沢市に着いた。
兼六園口でタクシーを拾い30分ほど移動すると金沢市郊外の古民家に着いた。
周りには山と田んぼとビニールハウスしかない。
引退した市会議員が終の棲家として選んだ場所だが、元々は、背中に立派な彫り物がある地元の組長さんだ。昔はヤクザが表舞台で政治に関わっているのは珍しくは無かった。激動の時代を生き抜いて、現在は妻と共に趣味程度の農業を営み、週末は8人いる息子や娘が孫を連れて来るのを楽しみにしている。
広い玄関に立てかけられた、たたみ二畳分の大きさはあろうかという杉の木の根っこの置物の前で、腰の曲がった目つきだけが鋭い老人が出迎える。
老人の名は新寛平(あらたかんぺい)。
『遠いところを、良くいらっしゃった、ささっ、奥へどうぞ』
『新さん。ご無沙汰しております』
平屋で建物だけで70坪あるそうだ。
茶の間に通されると揺り椅子に、長年連れ添った糟糠の妻がミニチュアダックスを抱いて待っていた。本来なら出迎えるべきだろうが、つい昨日、裏山で滑って転んで、足をねん挫したそうだ。
同じ時代を生き抜いた3人が、久しぶりに会って互いに近状を報告し合い、そして思い出話を始める。
特に目的は無い。足腰が丈夫なうちに会っておこうと、ただそれだけのことだ。それに、年齢のことを考えると、もう会うのは最後かも知れないとお互いに言い合った。
小一時間ばかり、他愛もない昔話を続けていたが、新老人が、
『和季さん、ここは安全な場所だから、せっかくなので金沢市内を見物して行って下さい。私ら年寄りの世間話に付き合っていても、暇を持て余すだけでしょう』
本来ならあり得ないことである。もしも、この申し出を受けたら、流石の風間も和季をこっぴどく叱らなくてはならない。ほぼ引退しているとは言え、組長の傍を護衛が離れるなどはあってはならない。親を盗られる、つまり、目を離した隙に敵対する組織に襲われでもして、それこそ藤庄吉に死なれでもしたら組は無くなる。
子供は命を張ってでも親を守らなければならない。
だがそこは気軽で気まぐれな藤庄吉のことである。ご隠居さんだ。単独行動はむしろ大好きであり、帰る日は決めてはいないが、出来れば芦原温泉のほうにも足を延ばしてみようかと思っている。
再び玄関に案内されると若い女が待っていた。ストレートの髪に細身で背が高く手足が長い。美人だ。
親戚の娘さんで短大を卒業したばかりだそうだ。
茶の間から見ていた藤老人がほくそ笑む。
地元の若い女に土地を案内してもらうのは趣向として面白い。もしかして若い者同士、何かあったらとも思ったが、美男子ではあるが朴念仁の林和季に、そんなハプニングを期待してはいけない。
誰が見ても分かるが林和季に欠けているのは、『欲』だ。
おそらく兼六園や東茶屋街を見て何事も無く帰って来るだろう。
若い2人を送り出すと、出前の寿司を食べたのち、老人2人は連れだって、金沢市内の繁華街を避けて、駅の西口にあるbarで肩を並べて飲んでいた。オールドパー、『古き友人』と名付けられたウイスキーが、バカラのグラスに注がれると、氷が小気味良い音をたてる。
酒を飲むのに酒器選びは重要だ。
新寛平は寂しそうな顔をしながら、
『街の店はもう、ほとんどがみかじめ料を払っていない。1992年の、あの暴対法以降なにもかもが変わった。昔は金沢でも月に、みかじめ料で5千万集める組もあったのにな、今じゃその100分の1も集まらないそうだ』
と言った。
みかじめ料とは用心棒代であり、昔のヤクザの収入源として代表的なものであった。例えば、『神戸の氷は日本一高い』と言われていた時代があったが、飲み屋は支払う用心棒代として、指定された氷屋から割高な氷を仕入れるのである。氷の材料は水だ。他にもオシボリや生花、壁に飾る絵画のレンタル代、正月には門松などもあった。
『それで、議員年金目当てに、選挙に出たんだろ』
『ヤクザじゃ食えなくなる気配はあったからな。指も無いのによくやったよ。なんだか思い出すと、全部が夢みたいだった。バブルの頃なんかさ、女は常に5人はいたよ』
『そうそう、ヤクザ好きの女って、けっこういた。金もつかったな』
『今の若いヤツらに話をしたら、おとぎ話みたいですね、ってさ』
大笑いした。
お互いに話は尽きない。
グラスのウイスキーが水っぽくなってきた。
そして、新寛平から、二人きりになると必ずする、思い出話を切り出される。
『庄吉さんは、まだあの女衒のこと、忘れ切れてないでしょ』
女衒(ぜげん)と聞いて、藤庄吉は自嘲ぎみに笑った。
嫌な思い出だ。独りでいる時に記憶がよぎると思わず叫びたくなる。
思い出す。
もう40年以上も前の話だ。
1970年代、日本が高度経済成長期の、旭日の勢いで目まぐるしく経済発展を遂げていた頃に、藤庄吉は横浜に地盤を持つある政治家がからんだ汚職事件で下手を打って、一時的に金沢の新寛平のもとに身を寄せていた。
おそらく、東京にいたら、生きてはいなかっただろう。
手を出してはいけないものに手を出してしまった。
新寛平は石川県輪島市の生まれで、北陸に根を張る大きな組で頭角を現し、自分の組を持たされるに至ったが、駆け出し前に知り合いの伝手で、浅草の風人車本家で住み込みをしていた。言わばヤクザの修行だが、その住み込み時代に仲が良かったのが藤庄吉だ。
東京で露骨に命を狙われる羽目になった若き藤庄吉は、身を守るために北陸の友人を頼って金沢市に潜伏したが、女好きで派手好きの性格から、大人しくしていられる筈がなく、しかも、太平洋戦争で空襲を受けなかった金沢市には、香林坊、片町、東茶屋の風情のある飲み屋街がそっくり残っている他、西茶屋や石坂のちょんの間も当時は全盛期だ。
藤庄吉は博打が強く、金持ちたちが集まる賭博場に通っては、ほどよく負けてやり、勝つ時にはけっこうな額を持ち帰っていた。金持ちの家に金持ち同士で集まって昼間から花札である。
酒でも、博打でも、女でも、遊び上手かどうかは、どれだけその遊びが好きで、金をつぎ込んだかによると思う。また、当時の金持ちたちも人間が出来たもので、藤庄吉が自分の都合のいい様に、勝ったり負けたりしているのを気づいても黙認をしていた。
この頃の若者は年上に兎に角可愛がられた。
博打を打っては、酒を飲み、女を抱く。金沢市内の繁華街で派手に散財をする、少し目立つ存在になった。金離れの良い男に女たちは敏感だ。それに、笑うと少年のような顔をするやんちゃな男を、女たちが放って置く訳がない。何人か良い思いもさせてもらった。
ある夜、藤庄吉は男と知り合った。
発端は、当時の片町にあった、たしか、『深海/AQUA』という名前のグランドパブで、偶然に居合わせた男に絡まれたところから始まる。
この頃流行っていた黒革のコートにタートルネック。見せびらかすようにぶら下がった太い金のネックレス。ヤナギヤのポマードでべっとりと髪をオールバックに撫でつけた男は言った。
『東京から来た藤庄吉ってのはお前か』
酒もけっこう入っていた。
『はあ、なんだてめえは』
同い年ぐらいの男に、初対面でいきなりお前呼ばわりされたのに頭にきて、取っ組み合いの喧嘩になった。酒が入っているうえに興奮で痛みも麻痺し、徹底的な素手ゴロになりとことん拳で殴り合った。
一瞬だが、男はブランデーのボトルを掴み、すぐに手放した。
店のボーイに厳つい巨漢がいて、よく覚えているが俳優の安岡力也にそっくりだったそいつに、二人同時に襟首を掴まれて表に放り出された。互いに必死で殴り合っていたのだから酷い有様だ。髪はぐちゃぐちゃ、服は乱れて、靴も片方が無く、瞼は晴れ上がり、口の中は切れて、顔も手も擦り傷だらけ。
真冬の、片町の人通りの中に、情けない姿の男二人が放置された。
やっと気持ちが落ち着いた頃に藤庄吉は何の気なしに聞いた。
『おめえ、なんで掴んだブランデーの瓶を、つかわなかった』
『そんな格好の悪いこと出来るか』
この短いやり取りで相手の男を気に入った。
単純なもので殴り合って仲良くなってしまい、そのままいっしょに店を変えて飲んでいたところを、喧嘩した店から通報されていたらしく、探し回っていた警察官に捕まって事情徴収を受けた。だが、派出所に連れて行かれて注意と傷の手当てを受け、お咎め無しで解放されたのだから、おおらかな時代であったのだ。
その数日後に、ばったりと、また片町の別なスナックで見かけて、声を掛けたらもう十年来の友人のように親しく話しかけてきた。
男は自分を女衒(ぜげん)だと言った。
ヤクザは男を売る商売だ。基本は女をつくるところから始まり、飲み屋でも風俗でも女に稼がせ、それが駆け出しの最初の凌ぎになる。
しかしだ、女衒は、女を食い物にする、下卑た商売として見られている。その昔の孤児をさらって遊郭に売り飛ばしていた、『人買い』なのである。
事実上女衒は江戸時代にはすでに禁止されているので比喩であり近年で言えばスカウトマンにあたる。
システムとして、女衒は店と契約し、街で声を掛けた女をスナックや風俗で働かせて、売り上げの何パーセントかの上前をはねる。女が店で一カ月の売り上げを100万出したとすると、契約が5パーセントなら5万。複数の店と契約をして、そんな女を5人も斡旋しておけば、月に25万を寝ていても懐に収められる。
しかし大変なのは女の管理である。自分に惚れさせて、店を辞めさせないようになだめすかして凌いでいく。縄張りもあるし、他の女衒の女に声を掛けてはいけない、女を別の店とかけ持ちをさせてはいけないなど、縛りもいくつかある。
自らを女衒と名乗った男は笑いながら、
『オレのあれ、けっこういいらしいんだ』
と言う。
『ほんとかよ』
藤庄吉は大笑いした。
次の日に仕事を見せると言うので夕方に金沢市内で待ち合わせをした。
日の暮れかけた片町界隈、香林坊界隈の繁華街を歩いて店を数件回り、自分の商品、つまりは女と談笑し、近状や愚痴を聞いていた。苦情があれば店やオーナーと話し合うこともあるそうだ。
店から受け取った金をクロコダイルのハンドバックにしまいながら言う。
『月末は温泉街に集金に行く。ソープランドだ。そっちが金になるんだ』
『ぜんぶで月にいくらになる』
『そこは企業秘密よ。でも、3桁は余裕で行く』
『事務所構えればいいじゃねぇか』
『無駄な投資はせん。女たちも自分も体が資本だから、寝る部屋と連絡先があればじゅうぶん』
大卒の初任給が10万円そこそこの時代に月に3桁を稼ぐのは立派な実業家だ。
『ケツ持ちは』
『小さい組だ。組長さんはいま懲役くらってる』
仕事のトラブル対処をしてくれる、ケツ持ち、ヤクザは必ず必要だ。
現金の入ったハンドバックを持ったまま、2人でラーメン屋に入り腹を満たすと、明日の昼も金沢駅で会わないかと言われて、藤庄吉は起きられたらそうすると約束をして別れた。
その次の日、待ち合わせ場所に向かうと、駅前のロータリーで女衒が若い女と揉めていた。
『このクズ野郎、あんたのせいであの子は』
罵声を浴びせられハンドバックで殴られていた。
こっちを見るなり、小走りに駆け寄ると、藤庄吉の腕をつかんで駅のなかに逃げ込んだ。
『かっこ悪いとこ見られたな』
『なんだいありゃ』
『商品の姉さんだ。いきなり怒鳴られて叩かれた。前に紹介した店でトラブルがあった』
そのまま金沢駅西口の近くにある喫茶店に連れて行かれた。
女衒は店に入るなり、親しげに店員の女に話しかけるが、女のほうは眉間に皺をよせてどうも困っている様子だ。
座ってメニューを見る。
純喫茶なので珈琲がメニューの中心になるのだが、藤庄吉はどうしても珈琲が好きになれない。苦いのが嫌いだし見た目も泥水にしか見えない。日本人には日本茶であり、ゆずっても紅茶なのであるが、なぜかこの時代に男が紅茶を飲んでいると馬鹿にされる風潮があった。
甘党なので、我慢しきれずに珈琲とショートケーキのセットを頼むと、男も笑いながら同じショートケーキのセットを注文した。
レコードプレイヤーが回転して、家具調のキャビネットに仰々しく収まった、ステレオのスピーカーから歌謡曲が流れる。
日本の何処にでもありそうな喫茶店だ。
ふと、トレイにのった珈琲を持って来た店員の女の顔を見たら、これがけっこうな美人であることに気づいた。
シュッとした瓜実顔に柳腰の、
ーひなまれ….、
である。
ひなは田舎を現し、田舎には稀な美人との意味だ。
『気付いたか、いいだろ、秋恵ちゃんっていうんだ』
女は、詠秋恵(えいあきえ)。珍しい苗字だが金沢にはけっこう多いとのことだ。
『すげえべっぴんだな。思ったんだが、金沢っていい女が多いよな』
『日本海側は曇り空が多いからな、色白髪長なんちゃららってな』
色白髪長七難隠す、(いろじろかみながしちなんかくす)と言うが、そもそもが端正な顔立ちの女なのだ。
小さな喫茶店のウェイトレスにしておくには勿体ない。
カップに鼻を近づけ珈琲の匂いをかいで、口に含むがやはり美味しいとは思えない。だが、あの女は何度も見てしまうぐらいに美しい、その女が入れてくれたのだ。
男が2人、頬をゆるませて、にや、にや、しながら話を弾ませた。
『今度はあの女を商品にすんのか』
『それが身持ちが固くて、なか、なか、なびいてくれない』
『なんだ、なんだ、女衒とか言っておいて、オレが頂いちまうぜ』
顔が見る見る赤くなる。しまった、怒らせた、と思ったが、一息ついてカップをテーブルに置き、ショートケーキを頬張ると一気にコップの水で流し込んだ。
まだ、この頃は国内販売されていた、『峰』、という銘柄のタバコに火を着ける。
『なら、勝負だ』
『勝負ってなんでえ』
『あの女、秋恵ちゃんを、どっちが先に振りむかせるか』
『ほっほ~、いいな、それ』
藤庄吉は根っからの博徒だ。勝負と聞いただけで血が躍る。それに、女を口説くのには自信があった。どんな女でも30分あれば口説いて見せると豪語している。
その日から藤庄吉の喫茶店通いが始まり、飲みたくもない珈琲を、嫌と言うほど飲むことになった。
話をいったん現代に戻す。
藤庄吉はバーカウンターに置かれたバカラの中で、ゆっくりと溶けていく氷を見つめながら煙草に火を着けた。
金沢駅の西口のビルにさりげなくあるbarだが、オーナーがよほど力を入れているらしくて、黒を基調にした広い店内には豪華なチェスターフィールドのソファが並べられ、天井からは本物の鹿の角で作られたシャンデリアが吊り下がっている。
中央に据えられたロの字のカウンターの中では、2人のバーテンダーが談笑しながらシェイカーを振っていた。他に女性スタッフが2人。
大きくとられた窓の外には煌々とした電光看板と向かいのビルの灯りが見える。
酒と移動の疲れから藤庄吉は軽い眩暈を覚えた。
よく、よく、思い出せば、あの喫茶店があったのは此処からすぐ近くだ。道路は当時のまま残っているが町並みはすっかりと変わった。
新寛平が言う。
『しかし、あの女が、我々のお仲間の愛人だったのは、誤算でしたね』
都会の美女はちやほやされるぐらいだが、田舎で目立つぐらいに美しい女は、間違いなく道を踏み外す。
詠秋恵はある組長の愛人であった。
前記したが、この頃のヤクザは金回りが良いのもいて、女を何人も囲っていた。
ヤクザは何よりも女を大切にする。
そして、ヤクザの女に手を出すのは、
ーまめ泥棒….、
と呼ばれ、任侠の世界ではタブーだ。
紛らわしいのは、存在を大っぴらに出来ないのが愛人であって、その女が愛人かどうかなどは、相手に乗り込まれてからしか分からないのである。
藤庄吉の脳裏には当時の金沢の町並みがはっきりと思い出されていた。
金沢駅が今の近代的な建物になるずっと前、『青電車』と呼ばれた市電が走っていた頃、高度経済成長期で皆懐が潤いはじめて、何処の都市でも街は人で賑わっていた。
鮮明に覚えているのは、金沢市の繁華街の一つである香林坊の人盛りと、陽気な女のハミングと、映画館、『金沢スカラ座』の看板だ。
コートを羽織って歩く藤庄吉の隣には、上下をお揃いのコーデュロイのスーツで着飾った詠秋恵がいた。金沢スカラ座で何の映画を見たかは忘れたが、先に口説いたのは女衒ではなくて藤庄吉のほうだった。
秋恵は細身に手足が長くすらりとしていて遠目にも目立つ。特に黒目勝ちの強気な瞳が印象的だ。
だが、見た目とは裏腹に落ち着いた声でゆっくりと話すので、会話が常にスローペースで進む。せっかちな藤庄吉は、『つかみどころのない金沢女』とは、この話し方のことだろうとなんとなく思った。
時折、おどけて藤庄吉の関東弁を、おうむ返しで話すのが可愛いらしかった。
都会の生活に興味があるらしく東京の話をすると喜ぶ。会話は弾むが、身持ちが固いのは変わらず、冗談っぽく、部屋に行ってもいいかと尋ねても、強く断られた。
食事するところを探してぶらぶら歩く。
喫茶店ではどうしても珈琲が主役であり、いい加減に嫌気がさしていたので、今で言えばファミリーレストランにあたるパーラーに入ったが、ここでも秋恵は東京の話に興味をそそられて絶えず笑顔だった。
都会に対する憧れが異常に強い。
コースターに置かれた、レモンスカッシュの黄金色の液体の中を、炭酸の粒が次々に昇っていく。
『ねえ、わたし、銀座に行ってみたい』
『わかった。今度案内してやる』
『ぜったいよ』
『おっけー、おっけー』
『銀座のパーラーでお食事したら素敵でしょうね』
他愛もないやり取りで盛り上がる。
落ち着いた物腰だが秋恵は一昨年に高校を卒業したばかりで今年で二十歳だ。まだまだ若い。卒業後は就職せずにずっと両親が営む喫茶店の手伝いをしてる。
ナポリタンが運ばれて来る。イタリア人はいつもこんなものを食べているのだと、この頃は信じていたが、後に日本人が考えたレシピだと知って大いに笑った。
映画を見て、飯を食って、されこれからという時に、秋恵が夜は友達と出かける用事があると言うので引き下がった。
あまりせっかちだと次は会ってももらえなくなると考えた。
期待を裏切られて思わず独白する。
『ありゃ、おっとりして見えるが気が強いな。男を尻に敷くタイプ』
時間の無駄と感じた。あの手の女はどう口説いても落ちない。あきらめも肝心だ。
人込みに消えていく後ろ姿を見送った。
秋恵と別れるといつも通っている金持ちの家に博打をしに寄ったが、その日は本当に引きが弱くすっかりと負けてしまった。
帰りのタクシー代まで使ってしまったのに気付いて、そわ、そわ、としていると、隣に座っていた金持ちが、笑いながら、『これで帰れ』と言って一万円札をくれた。小遣いをやるから明日も来いとのことだ。
腹も減った。
もしかしたら、女衒に会えないかとタクシーで片町に向かうが、携帯電話の無い時代に約束もせずに会えるのは奇跡だ。行きつけになったスナックに入り、他の客がキープしたボトルから焼酎を頂いてチビチビと飲んだ。
客がいなくなったのを見計らい、唐突に、ママが店のシャッターを閉める。
『水曜日、客も来ない、今日は閉店』
カウンターで二人きりになった。旦那は大手の工場勤務で、単身赴任で海外に技術支援に行っており、もう半年近く帰っていないそうだ。娘も彼氏と半同棲のような生活をしており2階にはママが一人で住んでいる。
飲み始めるとすぐに手が太ももにおかれる。
ママは、年増とはいっても、小ぎれいで色気がある。
人間はいつでも発情出来る。いっしょに2階にあがると、酒のせいか精を放つまで時間がかかったが、それでも若さにまかせて腰を振り続けて、お互いにぐったりするまで行為に及んだ。
すやすやと眠る傍らでセブンスターに火を着ける。
一息つきながら、
―オレは何をやってるんだ….、
と呟いた。
凌ぎが無い、稼ぎが無いのは、切ない。
―戻りてぇな、東京に….、
服を着ると1階の店に降り、眠っているのを気遣って、音がしないようにシャッターを開け、同じようにそっと降ろし、用意してもらった、『ヤサ』、とは言っても日雇い労働者が住むような木賃宿であり、布団とテレビしか無い部屋に戻るとした。
まだ夜の10時ぐらい。営業している店のネオンのあいだを、とぼ、とぼ、と歩く。
いきなり背後から話しかけられる。
振り向くと男が2人、向き直ると、いつの間にか男がもう1人いて、囲まれていた。
黒い革のコートに派手なプリントシャツと太い金のネックレス。背後から声をかけた男は眉毛を剃り落としており、でっぷりとした入道そのものであった。
嫌な予感がした。
自分が逃亡者なのも忘れて呑気に羽を伸ばし過ぎた。
はたして関東から来た追手だろうか。
正面に立った背の高い男が話し出す。
『片町界隈でうろちょろしている、女衒、知ってるよな』
『女衒。ああ、ダチだよ』
『そいつのことで少し話がある。着いて来てくれ』
『ここじゃダメなのかい』
取り合えずは思い過ごしであったが、どうも女衒のことで面倒に巻き込まれそうだ。
木賃宿の入口までは50メートルも無い。おそらく張り込んでいたのだろう。風体から同業者だ。もしかしたら刑事かも知れない。でも、連れて行かれるほどのことは身に覚えが無い。
『まず、何処の、誰なんだ、名乗ってくれないか』
『おう、おう、いちいちいじっかしいぞ』
背後にいた入道が凄む。
金沢弁で、『いじっかしい』は、『やかましい』である。
得体が知れない相手だ。うっかりと着いては行けない。しかし、女衒のことを告げられたのが気になる。
再び背の高い男が話し出した。
『まあ、ある組のもんだ。俺は若頭だが、名乗るほどの者じゃないし、知らなくていい。話は、金沢駅の近くにある喫茶店に、秋恵って女が働いているだろ。あれは、うちの組長の女だ』
流石の藤庄吉も言葉を失った。今日の午前中にいっしょに映画を見て、香林坊のパーラーでいっしょにナポリタンを食べた。ただそれだけだが、相手にしてみれば、何を言っても言い訳にしか聞こえないだろう。まだ、手は出していません、など五十歩百歩なのだ。
不覚にも、『まめ泥棒』になってしまった。
だが、認めてしまったら、負けだ。
『それがどうした』
『おまえら商品にしようと狙っていただろう。女衒はちょっと離れたところでお前を待っている。助けたほうがいいんじゃないか』
『何しやがった』
『まだ何も。でも、ここからは分からない』
『なんで、その組長が、直接来ねえ』
『網走に行っている』
北海道の網走刑務所のことだ。再犯者・暴力団構成員が送られる。
『金沢でうちの組長を知らないヤツはいない』
どうやら地元の有名人の女に手を出してしまったようだ。
逃げようかと思ったが、相手は、藤庄吉が誰で、何処の組に世話になっているかも調べ上げているだろう。客人が、『まめ泥棒』をしたとは、匿ってくれている組にも迷惑がかかる。また、ここで下手を打てば、今後はこの世界で仕事がし難くなるのではと云う打算もあった。
顎先で促されるままに、藤庄吉は近くに駐車してあった黒のセダンに揺られて、金沢市郊外にある閉鎖された廃工場に連れて行かれた。
何やら部品の工場だったようで引き取り手のない古い切削機械がそのまま置いてある。
電気は生きているようで、照明のスイッチが入れられると、建屋内には残されたボール盤といっしょに、床にはボルトやナット、ハンドドリルやその他の工具や治具が散らばっているのが見えた。
奥に人の気配がする。
女衒が、後ろ手に縛られて、足も拘束されて椅子に括りつけられていた。
それと見張りの男が1人。
椅子の下には失禁したあとがある。
ズボンは血と小便でべっとりと濡れていた。それと全身を雨に打たれたかのような汗。複数の傷。血まみれだ。顔もさんざん殴られたらしく、ボールのように腫れあがって目は見えていない
足元には血まみれの金づちとスーパーのビニール袋が落ちていた。金づちで弁慶の泣き所を何度も強く殴打され、堪えきれずに失禁し、スーパーのビニール袋を顔に被せられて何度も窒息させられたのだろう。
暴力に躊躇いがないのがヤクザである。
『やりすぎなんじゃねえのか』
藤庄吉は怒鳴った。
『お前さんもご同業なら知ってるだろ、まめ泥棒は何よりも嫌われる』
『こいつはまだ何もしてない』
『何も知らんようだな』
『何がだよう』
若頭は女衒に近寄ると思い切り頬を張った。
ぱぁん、と、小さく破裂するよう音が響く。
振り返る。
『こいつは、うちからシャブを買っていた。それも、自分で使うんじゃない、自分の女たちに使う。それで商品にして言うことを聞かせていた』
女衒は見えない目で藤庄吉の姿を探しているようで、腫れあがった顔をしきりに動かし、口をパクパクさせた。
『女をシャブ漬けにして無理矢理に体を売らせてた。西茶屋や石坂、片町のスナックの連れ出しなんか序の口で、県内の温泉場に斡旋したり、福井のほうに売り飛ばされた女だっている。なかには自殺した女もいる。どうだ、それがこいつの正体だ』
信じられなかった。しかし、話が本当なら、いや、この状況からして事実だろうが、こいつはやっぱり、『女衒』だ、下卑た商売の、駅にいた女が言っていたようにクズ野郎だ。
考えたくはないが、金沢駅で女衒を罵っていたのはたぶん、妹に自殺された姉だ。
若頭は話をつづけた。
『おまえ、今日は片町で女連れだっただろう、おまえと別れた後に、女が会いに行ったのはこいつだ。こいつはうちの組長が、もうすぐ出所するのを知っていたから、その前に強引にものにしちまおうと考えて、騙して、車に連れ込みやがった。それで車の中でシャブ打ちやがった。過剰摂取だよ。様子がおかしいんで、後をつけていた手下が見に行ったら、泡吹いて気絶してやがったそうだ。秋恵って女は、今、知り合いの病院に連れて行ってる』
開いた口が塞がらなかった。
覚醒剤の過剰摂取は、吐き気、嘔吐、そして意味も無く強烈な不安に襲われる。本来ならば、酒と同じで時間がくれば醒めるものだが、量を間違うと急性中毒による全身けいれんで死に至る場合もある。
秋恵もヤクザの愛人になるような女だし、また、色々と経験をしてみたい年頃である。女を商品にするプロの口車にまんまとのってしまい、興味本位から薬にまで手を出してしまった。
高校を出て進路を選ばなかったのは、学生の頃には既に組長のお手付きになっていたからだ。
これで話がつながった。秋恵は、女衒がケツ持ちをしてもらっている小さな組の、懲役に行っている組長の愛人だった。そして、世話になっている組長の愛人を、シャブ漬けにして売り飛ばそうと考えたなら、そうとうにイカれている。
義理を欠く人間はダメな人間だ。
『外道だな』
心の声が出てしまった。
『オレたちは、親分に言われて女の様子を時々見に行っていた。それと、あの喫茶店の、女の父親にも金を渡して、怪しいヤツが近付いたら耳に入れてくれと言っておいた。そしたらまさか、片町界隈で悪名の高いこいつに、引っ掛かってたって訳だ』
言い方は丁寧だが凄みがあった。それもその筈で、不在の組長の言いつけを守れなかったら、若頭はそうとうな責めを受けなければならない。
最悪の事態が起こる寸前で命拾いをした。肝を冷やしたのだ。
執拗な拷問の跡にも納得がいく。
このころ発売されたばかりのボラロイド写真を見せられた。写真には凄惨な仕置きの有様が写っており、苦痛に顔をしかめる女衒と、血まみれの金づちと、他にもビニール袋を被せられた姿などが焼き付けられていた。
『藤庄吉、おまえが身柄を預けている組は北陸でも大きい。比べて、うちは小さな組だ。もしも、おまえに手を出してしまったら、うちの組と揉める。そして、間違いなくうちは潰される』
筋道を通せばそうなる。
『わかったら、もうあの女にも、こいつにも近付かないでくれ』
吐き捨てるように言われた。
踵を返すと若頭は振り向きもせずに、
『こいつはクズだが、今日はおまえに免じて、少し考えてやる。賭けをした。誰も助けに来るヤツはいないだろうと言ったら、おまえを指名した。そして来た』
言い残して去った。
男たちに引きずられながら女衒も消え、真夜中の廃工場に藤庄吉は独りで取り残された。
仕事の片棒を担がされた。
女衒が、自分を喫茶店に誘ったのは、秋恵が東京に憧れているのを知っていて、取り入るきっかけにしたのだと考えると、帰り道でなんとも嫌な気持ちになり、背中に重りを積まれたようにうつむいて歩いた。
そんな男を、ダチ、友人だと思っていた。
騙されていた。
居酒屋やスナックで酒を飲み交わしたり、つるんで片町界隈を歩いたり、周囲には自分がどう映っていたのだろうか。都会から来た無知なよそ者が、蛇蝎に騙されているように映っただろう、さぞ、バカな男に見られていたことだろう。
田舎で通りがかるタクシーもなく、また土地勘も無く、明け方まで歩いて、たまたま庭に出てきた農家の人に道を教えてもらってヤサに戻った。
藤庄吉が北陸にいたのは2ヵ月ぐらいだ。このすぐ後、東京を追われるきっかけになった事件の首謀者である政治家が、他の事件でも告発されて、ほかのことなどかまっていられなくなった。
政治家お得意の足の引っ張り合いだ。
藤庄吉は、素知らぬ顔で、住み馴れた東京に戻ることが出来た。
月日が流れて、金沢市の街並みもすっかりと変わり、藤庄吉は、古き友人と肩を並べて酒を飲んでいる。
銀の小皿からナッツを摘まむと口に放り込んだ。
店内には静かにジャズが流れて藤老人は思案を続ける。
あの女衒は誰にも相手にされないような男で、やり口の酷さから界隈でも嫌われ者であり、仕事の片棒を担がせるために藤庄吉に声を掛けた。噂では、金沢市を出ていくことを条件に、命までは盗られずに済んだと聞いた。
また、詠秋恵については回復をして、一時は出所した組長にマンションを与えられて囲われ者となったが、その組長もあの若頭も抗争で組を失い何処とも無く消えた。
秋恵についてもその後の話は何も聞かない。
新寛平は告白する。
『あの女衒は、実は、晩年になって金沢に戻って来た。それも、洗礼を受けて牧師になってた』
『なんで黙ってた』
『今更言っても仕方が無いと思った。最近亡くなったが、熱心な牧師さんだったみたいで、優しくて、大勢の人に囲まれて、最期は笑顔で息を引き取ったそうです』
何かのきっかけで宗教に救いを求めたのではないだろうか。女衒は自らが布教者となり、それまでの罪を消し去ろうとしたのではないだろうか。
藤老人の心に小さな棘として引っ掛かっているのは、殴り合いで意気投合したときの気持ちと、それまで友人だと思っていた男に、思わず、『外道』と言ってしまった、なんとも落としどころのない居心地の悪さだ。
女衒は、寂しさから自分に声を掛け、純粋に友人が欲しかったのではないだろうか。
取り繕うことはもう永遠に出来ない。
『教会に来る人にしきりに言っていたみたいですよ。東京に友人がいる。もう会うこともないだろうが、昔、その人に命を助けられたと』
藤老人のなかで呪縛がゆっくりと溶け行く。
『友人』、であり利用されたのでは無かった。
女衒は、仕事であって、人間性とはまた少し別のものだった。プライベートの彼はただの寂しがり屋で孤独が耐えられなかった。
多分この業界の人間は皆同じだが、気が短く、喧嘩っ早く、不器用で、子供のころから人の輪の中に入れずにいたのだろう。家庭環境も良ければこんな業界とは関わらない。時々勘違いして入って来るのもいるが、まっとうな家庭で育った人間ならすぐに逃げ出す。
ただ、どうしても、この業界に居つく人間の特徴として、運に見放されているのは自分も含めて否めない。
『新さん、あんたがいてくれて、良かったよ』
『なんですいきなり、もう知り合ってから、50年になりますよ』
『お互い生き残って、良かった、良かった』
声が自然と大きくなった。
カウンターで盛り上がって大笑いをする2人の老人を、バーテンダーは薄くて割れやすいバカラのグラスで、勢いよく乾杯をして割られはしないかと不安そうに見つめた。
遅くなる前に代行を呼んで帰宅する。
新寛平の家でぐっすりと眠り、翌朝起きると居間のテーブルには、玉子焼きや納豆のほかに、北陸らしく白エビと胡瓜の甘酢漬が並べられていた。
味噌汁の味噌の味も関東とは違う。美味い。
今日は観光タクシーを呼んで、皆で連れだって白川郷まで足を運び、合掌造りを見る。藤老人、新寛平とその妻、それに、和季と、昨日来た親戚だという若い女もいっしょだ。話を聞くと、和季たちは、昨日は金沢市内を観光バスで順番にまわり、香林坊の寿司屋で夕食を済ませて早いうちに戻って来たそうだ。
老人2人は目を合わせてにやにやと笑った。
午前中に降っていた雨も止んだ。晴れてはいないが、北陸に旅行に来て雨が降っていないだけでも儲けたものだ。
移動する観光タクシーの中で新寛平が悪戯っぽく言う。
『そう言えば、お婆ちゃんの実家は喫茶店だったよね』
『はい。金沢駅の西口の近くにあったみたいですよ』
藤老人は助手席から振り向いた横顔を見て、思わず、『あっ』と声をあげた。
近くで見て気づいた。
面影が瓜二つである。
あの、詠秋恵の、孫だ。金沢市は加賀百万石とは言うが、日本海側を走る国道8号線に張り付いた小さな街だ。何らかの縁で新寛平の親戚の1人となり今に至っている。
老人2人は目を合わせて笑った。笑いが止まらなかった。
『わたしのお婆ちゃんの旧姓は、詠って言います。詠秋恵は、わたしのお婆ちゃんです。寛平さんから聞いたんですけど、昔、藤さんはお婆ちゃんと知り合いだったんですよね』
『そうそう、すげえ美人だったよ。あなたにそっくり』
『嬉しいです、美人だなんて。お婆ちゃんも元気ですよ』
『ほんとかい、良かった、元気が何よりだよ』
過ぎ去る景色といっしょで思い出も過去に流されていくが、時間が経って熟成される思い出もある。老人にとって北陸は思い出深い土地に変わり、もう思い出すことは嫌ではなくなった。楽しく談笑をしながら移動する車内で終始上機嫌だった。生きていれば苦悩もあるが良い事もたくさんある。
長生きはするものだ。
窓から遠くに立山連峰が見えた。眺めも最高だ。
安堵する。
皆、しぶとく生き残った。
ふと、これから行く、雪の積もった白川郷を想像して、うろ覚えだが、キリスト教の一説に、『たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ』とあったのを思い出す。
女衒の罪は、あの夜に、浄化されていた。
些細なことに自分だけが躓いて思い悩んでいたのだ。
―さよなら、友人よ….、
藤老人が心の中でつぶやいたところで、この話は終わりとする。