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蒼龍苦界/小説




 
 蒼 龍 苦 界
 





 遠い昔、オレの先祖は戦で負けて、流浪の身となった。関ヶ原合戦において、西軍の大将だった石田三成に、仕えていたのだ。
 敵の徳川家康に、勇ましい戦いぶりをもって、
 『あっぱれ武辺者かな。名を上げたき者は、彼の者の草履をいただけ』
 と、言わせた百姓上がりの侍、林半助が、オレの血筋にあたる。
 納戸から変色して所々が崩れた箱を取り出す。
 中からは、鞘も柄も施して無い、むき身の刃が姿を見せた。
 石田三成の刀だ。くどく言えば、秀吉の養子の一人、播磨の浮田秀家が贈った。
 資料では、石田正宗、ともいうが、
 切り込み正宗....、
 でも通っている。世に出れば国宝だ。徳川黎明会が現在も保存している、群馬県の館林で見つかった同名の品は、紛い物という事になる。
 『これを、どうしろと言うのだ』
 ほと、ほと、困り果てた。
 奇言奇行の挙げ句、父親が自殺したのが、10日前の事。
 駅前で乞食のまねをしてみたり、近くのお寺の墓石を将棋倒しにしてみたりして、最期はお経を唱えながら日光の自殺名所である、『華厳の滝』に飛び込んだ。
 レッカーで引き上げた遺体を自分は見ていない。
 斎場で灰になった父親と対面しても、感慨も、涙すら湧かなかった。
 遺言によって、身内と少ない親戚だけで済ませた葬式の後は、広い屋敷に独り残された。
 初めて来た客に、
 『あの麓から、あの麓まで....』
 と、説明して呆れられる広大な私有山林は、当面は叔父の管理になる。それと、食事や身の回りの世話は、近所の親戚がしてくれる話になった
 ただ叔父が一つだけ、この正宗の刀だけは、代々長男が受け継ぐしきたりだと、半ば嫌うように置いて行ったのだ。
 刀身の美しい紋模様は見つめていると吸い込まれそうになる。
 父親の手入れの賜物だが、平成の世に、こんな遺贈をされても迷惑なのである。
 生まれから19年間を、林和季、(ハヤシカズキ)は、山奥の大きな一軒家で暮らした。
 群馬県と栃木県の境に位置する氷室山の麓、冬になると閉ざされる国道の一番奥が、和季の生まれ育った場所だ。
 義務教育によって人格が歪むと信じて疑わなかった父親が、ろくすっぽ学校へも行かせてくれず、その為に友達もおらず、日々を読書と、ある事の鍛練に過ごした。
 それが現代の青春期なのだから、周囲も大いに若者の行く末を案じたが、父親が変わり者を通り越して物狂いになってしまってからは、避けて親戚すら寄り付かなくなった。
 叔父が、時折差し入れてくれる雑誌や、テレビで外界を知る外は、隔離された生活だったのである。
 砂利の採石場として、成り立っている地域産業のほとんどが、和季の家の事業だ。
 地元の古い人達は、近年無くなった祖父を未だに、『お殿さま』と言う。
 時代遅れも甚だしい。
 和季は立ち上がって、のびた髪をゴムで束ねた。
 大きな体躯だ。
 頭を低めて、玄関の梁を避けながら、表に出る。
 新しいカッターシャツとスラックス。正宗は無造作に布でくるんで、叔父からもらったゴルフクラブのソフトケースに納めた。
 『こんな物は、売り払ってしまう....』
 に、限るのである。そしたら、ゆっくりと大学検定試験でも受けてから、どこかのキャンパスでもって、前から興味のあった哲学か法律の勉強をしてみるつもりだ。
 とにかく世の中は、やたらと金がかかるらしいから、これで一石二鳥となる。
 長家門をくぐって出た国道から見える果てが、和季にとっては未知の領域であり、これから克服すべき困難が待ち構えている、『世界』でもあった。


 『なにしやがる』
 老人は背中を丸めて吠えた。
 それを、派手なシャツを着たチンピラが4人で、押しつぶすように取り囲む。
 新宿駅西口。甲州街道から奥に入った路地。真夜中の3時だが人通りは無くも無く。が、それが今のせちがない世の中で、誰もが無視して通り過ぎた。
 『おめえ達、どこのもんだ』
 チンピラが老人の足を払った。
 背後のシャッターに倒れる。
 『山王会だよ。もう死んでもいい歳だろ。くたばれ』
 ヤクザが、いちいち殺すのに、ピストルやドスを使うとは思わないでくれ。
 馬乗りになって首を絞める。
 今も昔も一番確実な人の殺し方だ。
 老人は激しく手を振ってもがいたが、殺す方は苦痛を加える側だけが持つ、嗜虐的な快楽に身をまかせていた。
 と、瞬間、老人の首を締め上げていたチンピラの頭が、激しく揺れて傾いた。転んで、目が老人の靴の先を捕らえる。チンピラ達の間を縫って出された足が肩を強く蹴ったのだ。
 気がつくと若者が立っていた。
 あきらかな蔑みの眼差しで、
 『お年寄りを、いたわりましょう....』
 坦々と言う。
 つかみ掛かる別なチンピラの、みぞおちをゴルフクラブのソフトケースで突いて倒し、体を半分だけ捻ると最小限の動きで、反対にいたチンピラを裏拳で、これも顔面を強打した。
 離れていたチンピラがナイフを取り出す。
 すると若者は、和季は、ソフトケースを開いて中から、切り込み正宗を出して見せた。
 絶句である。
 この平成の世の中に、それも新宿のど真ん中で、日本刀を出したのだ。
 チンピラ達は完全に威を削がれた。彼ら、衆をもって弱者をいたぶるのに、あまりにも慣れ過ぎていた。
 振り向く余裕もなく、西新宿の方ヘと走り去る。
 和季は、咳き込む老人を介抱し、立ち去ろうとした。
 スラックスの裾を老人が掴む。
 『待って、待て。タクシーを、つかまえてくれ』
 頼みを聞き和季は、甲州街道まで老人を、おぶって出た。目の前に止まっていたタクシーに乗せて、今度こそ場を去ろうとする。
 が、老人は、またしてもベルトを掴み、
 『オレの家に来い。礼をする。今は何も持っていないが、何かしなくては気がすまない』
 しつこく食い下がるではないか。
 話を聞かないので、根気負けした和季は、タクシーに一緒に乗り込んだ。
 
 
 時間は朝の7時。
 老人の事務所の、堅いソファーの上で、和季の鍛練は始められる。
 瞼の裏に思い浮かべる。
 まずは昨夜の、ナイフを取り出したチンピラが、寝込みを襲ったとしよう。だが、鋭敏に張り巡らされた和季の神経は、不審者の侵入を易々とは許さない。
 では、ピストルだったら、どうだろうか。
 至近距離だから、銃口の向きを見て、狙いを外す事も出来ない。弾丸は和季の腹ではじけて、内臓を破壊して、背中から飛び出す。
 絶命である。
 死だ。
 林和季は、死んだ、のである。
 そして、大きく息を吐いて、目を開いた。
 和季は毎朝必ず、幼少より仕込まれた、この訓練をやってのける。起きる前に頭の中で繰り返し、『仮想の死』を体験する事によって、不足の事態においても平常心を保てる。
 子供の頃から和季が動揺するような事は無い。
 カーテンを開く。
 歌舞伎町。
 新宿駅東口が吐き出したサラリーマンやOLと、仕事を終えた派手な女達とホスト。
 眠らない街。奇妙な街。
 そして、
 『眺めが汚い....』
 これは、実家の近くの沢の、掻き回されて白濁した流れの清らかさとか、山林の木々の静けさとかと、乱立するビルを比べたのではなくて、単に空気の汚れの事である。
 両手の平を合掌させて力を込める。
 力を込めて、眠ってる間に弛緩した筋肉に、適度な緊張を与えた。
 仕度をまとめて廊下に出ると、大きな体格の男が、
 『まっ、まっ。親父がじきに戻りますから』
 文字どおり部屋に和季を押し戻した。
 別段に急ぐ用事などはないが、早いところこの物騒な荷物を、手放したいのである。


 大理石のテーブルにマグロのブロックがのせられる。
 お昼は過ぎた。
 招かれた調理師が手際良く刺身を並べる。
 和季が、『旨い』と答えると、老人が片方の頬を釣り上げ、ニヤリ、と笑った。
 それはそうだろう。山奥育ちの和季が口にするのはいつも川魚で、何度食べても海魚の刺身など、濁った血の味しかしなかったのである。
 『こちらのダンナさんは、オレの古くからの友達でね。こうして、無理な頼みも聞いてくれる』
 赤坂の、『蛇の清鮨』は、政財界の大物がつかうような店だが、老人は気軽に呼びつけているようだ。目配せすると、調理師の男が部屋から出る。
 『先ずは助けられたお礼を言おう。ありがとう。ところで、オレは庄吉。藤庄吉というものだが、名前を聞かせてもらえるか』
 名前を告げると、老人は満足げに頷く。
 『良い名前だね。それじゃ和季、オレはヤクザだ』
 まっすぐな眼差しだった。
 突然に笑う。
 少年のように人なつこい。小作りな童顔だ。年老いての童顔は稀に見る大悪人だという。
 背後の壁に掲げられた金看板には、『風人車』と入っていた。
 『本家は浅草にある。こっちは分家で、歌舞伎町一帯を仕切ってる。クスリやハジキには手を出さない。夕べのヤツらは山王会。四国のヤクザだ。百人町のマンションに組を構えている。マンションヤクザってやつだな。ヤクザの出張みたいなもんだ。ジュク、(新宿)の狂犬とか言われて粋がってる』
 一息、間をおいてから、
 『刀を、見せてくれ』
 和季にとって隠すようなものでもない。
 ソフトケースから正宗を取り出す。
 藤老人は、しばらく刀に見入り、刀剣の美術的、かつ歴史資料としての価値を、分かってかどうかは知らないが、
 『預かってもいいか』
 と、尋ねてきた。
 語句には有無を言わせぬ凄みが込められている。
 『おおっと、すまない。断ってくれてもいいんだ。仕事柄、癖、でね』
 和季は微笑した。老人の中で、暴力と謙虚さの、相合わない筈のものが同居しているのが、コミカルに見えたからだ。
 好意を感じた。
 頷く。
 老人、藤庄吉は、破顔すると膝を叩いて待ってましたとばかりに立ち上がり、廊下にいた大きな体格の男を呼んでソフトケースを渡す。
 電話で何やら話を始めると、10分もしないうちに若い女が来た。
 気の強そうな、凛とした顔だちの女だ。
 『琴乃ちゃん、和季だ。いい男だろう。でもね、見ての通り、ちょっとあか抜けてねんだよ。オレは夕方から用事があるから、代わりにこいつを連れて行って適当に、こざっぱりとさせてくれないか』
 引き出しから財布を取り出す。
 琴乃と呼ばれた女はアゴをさすって、和季を、値踏みするように見つめた。
 『今どきなんでロンゲなの。それともアキバ系ってやつ』
 悪態をつく。
 和季が直視すると、琴乃はゆっくりと近付いて、服のボタンを外した。
 足下にはだけた服が落ちる。
 下着姿になる。気に入らなかったのだ。和季の崩れない姿勢が。若い男ならば自分を直視など出来ない。赤面しながら顔をそむけるか、だらしなく弛めるか。
 あるいは、虚勢か。
 呆れた藤老人が深く息をつく。
 『琴乃ちゃんは、うちと専属契約してる』
 言いながらDVDのパッケージを出すと、そこには、無防備な女の肢体が横たわっている。タイトルは、flower。単刀直入にAV女優ってやつだ。老人の収入源の一つだろう。
 『どう。胸は造りものだけどね。この身体で、稼ぐ月は400万』
 髪をかきあげた。
 ところが和季は、怯むどころか眉間に皺を集め、
 『人の容姿の美醜を語るのは、下品です』
 冷淡に答える。
 琴乃は唖然とし、続いて、身体の中心に火を入れられたように、カッ、と熱くなった。怒りではない。しばらく忘れていた羞恥心だ。
 動揺を悟られないように、和季を見返すと、ゆっくりと服を拾って仕度を整える。


 琴乃のBMWで渋谷のサロンに連れて行かれた。カリスマとかもてはやされ、テレビにも出ている。
 長かった髪は、ばっさり切られ、色が入れられた。
 『あらっ』
 感嘆の声が上がる。
 美容師の手によって、曖昧だった和季の容貌は、少しづつ整えられた。
 和季の顔には品格があった。田舎の山村などでは、狭い世間であり、同族結婚などが繰り返された結果、美しい者はより美しく、頭脳明せきなるものはより明せきにと、性能が磨かれてゆく。
 その反面、血が濃くなり過ぎて和季の父親のように、精神に狂をきたす者もあるのだ。
 琴乃が目を見張る。
 藤老人が、
 『いい男....』
 と評したのは、過大ではない。人を見極める術に長けていたのだ。
 こうなると、がぜん力が入る。和季はまだ二十歳にもなっていない。琴乃は、年下の男を育ててみたい欲求にかられた。
 知り合いのスタイリストのところを回り、髪型に服そうを合わせて、藤老人の事務所には戻らずに、昔に遊んだ世田谷のクラブに向かう。
 パンク専門のaug。
 ジャケットとクロムでドレスアップした和季がカウンターに座る。
 琴乃は満足げに見つめると、
 『高校生の頃は、ここで友達と倒れるまではしゃいだよ』
 言いながら、グラスに注がれたジンを飲む。
 和季はそれまで酒を嗜まなかったが、どうにも体質に合っていたらしく、これが、する、する、と、胃におさまっていった。
 結局、琴乃と2人で、タンカレーのボトルを空けてしまった。
 代行を使って新宿6町目の琴乃のマンションへ。酔っぱらって正体不明になった琴乃をベットまで運ぶと、あちらこちら迷いながら、交番で道を尋ねて和季は、歌舞伎町の藤老人の事務所まで歩く。
 戻ってみると事務所は、蜂の巣を突いた騒ぎになっている。
 今朝廊下にいた体格の大きな男と、初めて見るオールバックの男。それと、彼らよりはずっと若い男が5人集まっていた。
 『そいつも連れて行くか。腕は起つんだろ』
 オールバックの男が気炎を吐き、藤老人と同じ凄みを語気に含ませながら、和季を睨んだ。
 『兄弟、こちらはお客さんだから。こっちは風間で、オレが雷島だ』
 雷島と名乗った男、大きな体格の男が、すかさず言う。
 そして、
 『親父がさらわれた。西口のパブのママに熱をあげてな、毎日来るとかって自分で言ったもんだから、正直に毎日通ってたんだよ。相手から見れば、店を見張ってれば必ず来るんだから、簡単にさらえる』
 と、状況を説明する。
 『へっ。あんな大柄な女の、どこがいいんだよ』
 『親父の楽しみは女しかねんだよ。兎にも角にも、事務所を空ける訳にはいかない。オレと兄弟で行くから、お前達はいつもの通りに仕事しろ』
 階段を降りる2人に追い付いて、和季は事務所の前にあったベンツに乗り込む。
 『優男が粋がるんじゃねぇ』 
 『死ぬかもしれませんよ』
 風間が毒づく一方、後部座席の和季の顔を見て、雷島は息を飲んだ。長かった前髪のせいで今朝は分からなかったが、色がない、冷えた水のような目が、自分を見返したのである。
 全身から血の気が引いた。
 上背は高いが和季は色の白い、風間が言う通り、『優男』だ。お世辞にも頼りになると思えない。が、数々の修羅場をくぐり抜けた雷島の、心胆を冷えさせる何かが、和季の身体から発散していた。
 
 
 品川は次々に高層ビルが建てられて、目まぐるしく変わる東京においても、今もっとも発展の著しい街だ。だが影では、施主が資金繰りに困り、工事がとん挫している建物も少なくはない。
 ベンツを路肩に止める。
 車から降りると、明け方の湿った空気が、雷島の肺を満たした。元は東北のプロレス団体のレスラーだ。肩幅も豊かで胸板も厚い。
 続いて痩身短躯の風間が運転席から降りる。
 こちらは浅草の生まれで大学院で法学を修めている。
 ロープが張られた入口に、施主と建設会社の名前が入ったホワイトボードが、掛けられている。
 確認して、
 『ここだ』
 風間が独白しながら懐をさぐる。
 黒星拳銃。別名で、『トカレフ』。トカレフには二種類あるが、一時期ニュースなど話題になったのは中国製の偽物で、こちらはロシア製のオリジナル。
 オートマチックの機構が、ガチリ、と音を立て、弾倉から弾を飲み込む。
 ビルの朝露に濡れた階段を昇ると、2階のコンクリート地肌むき出しの現場に、派手なプリントシャツを着た男達が待っていた。5人。
 色素を抜いた髪の、三十絡みの男が怒鳴る。
 『2人か』
 かん高い声だ。品川駅からそう離れてもいないのに、あつい鉄筋が中の音を遮断し、外は外で、もうすぐ始まる通勤ラッシュの喧騒が、すべての出来事を隠してしまう。
 リンチの場所には持ってこいだ。
 山王会の若頭、北一輝、(キタイッキ)は、焦っていた。妾腹である。大阪や神戸で組をかまえる他の兄弟達に比べて、自分が見劣りするのは痛いくらい理解していた。だが、東洋一の歓楽街である歌舞伎町のシマを盗る事、それが出来れば、自分は組の後目候補者として認めてもらえる。
 それだけに無茶もする。1年ほど前に現れ、今では、狂犬、とあだ名されるほどになった。
 『風間さん、上着脱いで、回ってくんない。あんた、頭が良いから、用心しないと』
 風間は、言われた通りに上着を脱いで、その場で回って見せた。
 大きく息を吐いて、一輝が顎で合図をすると背後のシートが捲られ、ぐったりした藤老人が横たわっていた。
 ベルトに差したブローニングを抜いて老人に向ける。
 『歌舞伎町はオレがいただく』
 風間は欺く為に、雷島の腰に差したトカレフに手を掛けた。が、動きを察知した取り巻きのチンピラ達が、ピストルを構えるのが同時だ。
 見すかされていた。開き直ってトカレフを北一輝に向ける。
 唸る。
 『おまえ、親父に手を出したらただじゃおかね。オレが何処までも追いかけて殺す』
 雷島が腰を屈める。
 一か八か、自分の身体を盾にして、活路を見い出すつもりらしい。
 頬に卑屈な笑みを浮かべ、一輝が、ブローニングの引き金に力を込めた。
 その時だった。
 発射されるべき弾丸は、ピストル内部に留まったままで、一輝の手首から先が消えた。
 激しく天井にぶつかって、対峙する風間とのほぼまん中に、落下した蛙の腹のようなものは、切り離された一輝の手首だ。
 別れて非常口から入り、背後の柱の影に潜んだ和季は、全員の視線が藤老人からそれる一瞬を待っていた。
 正宗は昼間のうちに雷島が手配し、神田で骨董商を営む鞘師が、『寝鞘』と呼ばれる保管用の桐の柄と鞘を用意してくれていた。
 後に雷島が、
 『ダンスしてるみたいだった.....』
 と語る連動した太刀さばきは、一本の軌跡を描いて次々と、チンピラ達の手首を切り落とした。
 この間、およそ20秒足らず。
 何の事はない。
 和季は刀に優る驚異、ピストルを、排除したに過ぎなかった。
 熟練の外科医のような、あまりに鋭利な切断面に、叫び声一つ聞こえない。最後に一薙ぎ空を斬って、刀の血を払い除けると寝鞘におさめ、脇に藤老人を抱える。
 和季が小さな声で、
 『逃げる』
 簡潔に言った。
 そう、難事が去ったならば、後は、
 『逃げるに限る』
 のである。
 それを聞いた風間は、ブハッ、と吹き出す。毒気に当てられたのだ。
 痛快だった。
 笑い出す。
 次々人間の手首が飛ばされる奇妙な光景から、いち早く呪縛を解かれた風間が、大笑いしながら和季を追って走り出す。そして雷島。
 『最高だぜ』
 病みついたような風間の笑い声は、事務所に戻るまでおさまらなかった。
 しかし後々これが、『歌舞伎町抗争』と語られる風人車と山王会の、血なまぐさい争いの発端になり、林和季が渦中に身を置かざる得なくなるのは、また別の話。


 後日談である。 
 『和季、吉原行こうぜ、ソープ入りに』
 あれ以来風間は、何かにつけて和季を、誘い出そうとする。
 すると琴乃も、
 『ちょっと、私はこれから和季と、遊びに行くんだからね』
 『なんだクソ女。おめえみたいな地べた女じゃなくてな、極上のいい女を、和季に教えてやるんだよ』
 『地べた女。言ったねオジサン』
 『うるせえ。そこら辺で股でも開いてろ』
 『頭にきた』
 この2人、口喧嘩の敵同士なのである。 
 雷島は、もじ、もじ、しながら藤老人の後ろに控えている。
 和季はソファに腰掛け、正宗をどう処分するか考えていたが、そうそう急がなくていいような気がして、琴乃と風間に見入っていた。
 2人を見て、思案すればする程に、
 『バカらしい』
 と、思ったのである。
 事務所の窓から見える景色は、多彩な色、多彩な言語で飾られ、その雑多な看板の群れに切り刻まれた空には、気ままな秋の雲が悠々と、風に身をまかせていた。
by end_of_eternity | 2006-09-29 04:44

我的人生日常


by end_of_eternity